自分の声に耳を傾ける

このところ、心の底がざらついていました。


無邪気になれないことへのコンプレックス。


そんな時に、ふと読み始めた、よしもとばななさんの『花のベッドでひるねして』


ざらついた気持ちは、自分が自分に教えてくれているサインです。


ゆっくりと自分の中の自分に耳を傾けます。


以下、抜粋します。


欲がないところにだけ、広くて大きな海がある。

海には絶妙なバランスがある。

有名になる必要はないし、足りているもので生きればいい、そう決めれば必要なものはそこにあるんだ。




花のベッドに寝転んでいるような生き方をするんだよ。

うっとりと花のベッドに寝転んでいるような生き方をするんだ。

もちろん人生はきつくたいへんだし、様々な苦痛に満ちている。

それでも心の底から、誰が何と言おうと、だれにもわからないやり方でそうするんだ、まるで花のベッドに寝転んで起きてきたみたいに。

 



いちいち誤解を解く気もない。

花のベッドで寝転んでひるねしているように生きるのは楽なことではないけれど、それを選んだからには、周りにいくらそう思われてもしかたがない。

 

わかる人にはわかるし、わからない人にはわからなくていい。

人が一生をかけて本気で成そうとしていることなのだから、かんたんに解られても困るのだ。

 

私が自然を見れば、同じ分だけの力で自然も私を見る。

私がだれにも恥じない真心をもっていることも、静かな熱いものを大事にしていることも、だれにも言わないでこつこつといろいろなことをやっていることも、全部御見通しだ。

私が恥じない心を持っているからこそ、それが私の自然を見る目に映る。

自然がにごらないで見えるときには、私もにごっていない。

その瞬間は自然に力を与える。寄せては返す波のように、その力はめぐりめぐって私に返ってくる。

その循環こそが生きていることだと思うのだ。

 



もともと私は祖父ではないから、祖父の気持ちはほんとうにはわからない。

そんなことを考えていると、この世にはつまり自分しかいないんだな、とわかる。

自分が死ぬとき全てが消える。

 



世界と私はいつものようにきらきらとした目でお互いを賞賛しあい、見つめ合っていた。

そうそう、こっちが見ているだけじゃない。向こうも見ているんだ。

その目はどこにあるかというと、天に大きな目が浮かんでいるっていうわけじゃない、なぜか私の中にあるのだ。

私の中にあるもう一つの目が、世界の側にとって力を取り入れる窓なのだ。だから私がどういうふうに世界を見るかを世界は見ている。


そのことを昔の人はうまく言いようがなくて神様と呼んだんだなぁ、そう思った。

だからなるべく円満に、命に賞賛をこめて、今日も一日を生きる、私はそんなことを選んだのだ。

 

 

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20代の頃、祖父と言った熊本旅行