言葉の服~おしゃれと気づきの哲学~

言葉を贈る

私は人に気持ちを伝えるのがとても苦手で、本を贈ることがよくある。

昔、国語の授業で「作者の言いたいことはどこでしょう」という読解を勉強したけれど、作者が本当に読者に伝えたいことがあって、それを長い長い作品の中にオリエンテーリングのようにこっそりと忍ばせているのだとしたら、私も本を贈るときは「私があなたに伝えたいと思ったところはどこでしょう」という気持ちでいると思う。

私の愛読書を読んで感想をくれた男性の告白を、「ツボが違った」という理由でお断りしたこともある。それくらい、私には、言葉にできない「言葉を感じる感性」がとても大事だった。

一度、『日日是好日』という森下典子さんの本を贈ったら、ある人から返事が来たことがあった。その返事には、私が一番伝えたかった場所のページが書かれていた。

ああ、この人とは、気持ちの糸が一本繋がった!と思ったし、それを私に返してくれた人は今までほとんどなく奇跡的だった。

朝日新聞の夕刊で

数年前に、購読していた朝日新聞の夕刊に、素敵なエッセイを見つけた。

『言葉の服 matohiデザイナー 堀畑裕之』とあった。

ファッションのコーナーで、いつもはモードな情報が多く、私が飛ばしている紙面の左上にあった。すぐに切り抜いて保存して、掲載される日の規則性が見つけられないまま、毎日夕刊を楽しみにチェックするようになった。

私の大好きな「言葉」が、自然や人や文学や哲学みたいなものを織り込んでいた。

デザイナーという職業の人は自己主張に尖っていて、どこかアウトサイダーで、普通を嫌う人種であるという私の先入観とは全く違う印象を抱いて、堀畑さんというデザイナーにいつか会いたいと思っていた。

その頃、私は自分のホームページ作成をしているときで、ウェブデザイナーのキョウコさんに「マユコさんの好きなものは何?好きな映画は?好きな歌は?」ときかれた。

ホームページというのは、自分だけの星みたいなもの。自分の世界観を表現するのだから、自分の好きなものを置いて好きな言葉で表現していくのだと教えてくれた。

好きなものをいくつか答えた中に「堀畑さんの言葉」というのもあった。それで、「じゃあ、好きな人たちにインタビューをして、ホームページに掲載しよう!」という話になったのだ。

さて、困った。

私はファッションに詳しくないし、matohuのお店に行ったこともないし、行ってみたいけれどそこは私が着れるような服のブランドじゃないような気がする。

でも、一方で、「堀畑さんに会いにいける理由がある」ということにもわくわくしていた。

そして、ある日、決心をして、表参道のお店を訪ねたのです。それが、matohuさんと堀畑さんとの出会いだった。

matohuで堀畑さんに会う

ウェブデザイナーのキョウコさんが作ってくれたホームページのラフデザインを持って、表参道のお店を訪ねてみた。

お店に入ると正面にお花が活けてある。その瞬間、もう一度はっきりと、私が抱いていていたデザイナーという職業に対する先入観ははっきりと崩れた。

そうだった。ここは、あの言葉を紡ぎだす人のお店だった。

ユニセックスなデザインの服は、今まで私には縁がなかったものだけれど、そんなに遠いものでもない気がした。

店頭に立つスタッフの女性に話しかけれられ、おそるおそる話してみた。

「実は、私、朝日新聞の堀畑さんの連載が大好きで、ここに来ました。実は、いま自分のホームページを立ち上げようと思っているのですが、そこでインタビュー掲載をさせていただけないかと思ってきました。いきなりのお願いで、大変恐縮なのですが・・・・。」みたいなお話をしたと思う。

すると、スタッフの方がアトリエにいらっしゃるという堀畑さんを呼んできてくださった。

そして、同じことを話した。ご本人に話すときは、もっと緊張していた気がする。

突拍子もない珍客にも、穏やかなたたずまいでお話しを聞いてくださって、堀畑さんも流派の違う茶道をされていること、長着という着物のような洋服で茶会を催されたことなどをお話ししてくださった。

そして、「ちょっとお待ちくださいね」と言われて、奥に戻られて、次に出ていらしたときには、御抹茶を出してくださった。

とても薄くてモダンではかない感じのお茶碗に、ふわっと泡のたった抹茶だった。

本を贈った人からの返事にページの数字が書かれていたときのような、何かがすーっと繋がったような気がした。この時、堀畑さんはどんなふうに思われていたのかはわからないけれど、私は緊張しながらとても安心していた。緊張しながらも、とても安心する、あのお茶室の中にいるときのような気分だった。

そして、ホームページのインタビュー掲載の依頼に気持ちよく応じてくださることになったのだ。

「関係性」ということをテーマに、私の好きな方4人にインタビューして掲載している。

インタビュー記事

『言葉の服』が本になった

それ以来、大高翔さんの句会にお招きいただいたり、根津美術館でのお茶会にお誘いいただいたり、新作のショーにお招きくださったりして、パートナーでもありデザイナーでもある関口真希子さんともお会いすることができた。

余談ではあるけれど、関口さんは、私の友人に雰囲気がよく似ている。その友人は、長女の幼稚園のママ友で、浮ついた会話や流行に追われるような振る舞いをしない人で、些細な会話でもいつも丁寧に言葉を扱ってゆっくり穏やかに話す人だった。新米ママだった私はとても安心して信頼していた。

そうして、数年が経ち、今年あの、『言葉の服』が本になった。

いつかまとまった形になってほしいと願っていたので嬉しかった。出版記念パーティにお邪魔して、本にサインしていただいた。

たくさんのお客様がいらっしゃると思うのだけれど、堀畑さんは「言葉の服が、水上さんとの出会いでしたよね。」と言ってくださった。

まあでも、確かに、あの日の私は珍客で、印象に残る出来事だったのかもしれないが。

→『言葉の服』

『言葉の服』の好きな理由

さて、堀畑さんの「言いたいこと」を、私はちゃんと受け取れているのか。

「ツボが違う」ということでお断りされてしまったら(何をお断りされるのか・・・)と心配なので、あまり多くの感想はここでは述べないでおこうと思う。

この本は、何度でも読める本だと思う。

毎回、違う印象を持つかもしれない。

1章ずつ、ぱらぱらと気ままに読める。

もしかしたら、何度目かに読んでも、初めて読むような気がすることもあるのではないだろうか。

日本人がなんでもない日常の中に四季を感じていて、毎日毎月毎年、流れて繰り返されている、そんな日常の景色を、切り取ったような本だと思う。

読み流してしまう日もあれば、ぐっと言葉が身体に刺さる日もあれば、何度も読み返してしまう箇所もある、そんな言葉が並んでいる。

そんなだらだらとした私の感想を、本の帯で鷲田清一さんが一言で表現している。

「見慣れた世界を初めて見るかのように見ている」

 

【「あわい」―関係性の美学】

服作りの仕事にパタンナーとして就いたばかりの頃、デザイナーに「もっと目を鍛えなさい!」と教えられた。襟の大きさ、ボタンの間隔、切り替え線やポケットの位置、全体と部分との比率。ほんの数ミリ違うだけで、印象は大きく変わる。良い服作りとは、一着の服の中に最も自然なバランスを見極めることなのだと教えられた。そしてこの最も自然に見えることこそ、最も難しいことでもあることも。

物と物との空間的な関係=「間」の摂り方にも、日本人らしい美学があるとよく言われる。時に「余白の美」ともいう。だが、「余った白」というネガティブな言葉よりも、もっと綺麗な日本語がある。それを「あわい」と呼ぼう。

・・・・・中略・・・・・

「あわい」はまた、空間だけでなく時間的な関係性にも使われる。黄昏と夕闇とのあわい。晩夏と初秋との季節のあわい。穏やかにつながっていく時の後先。繊細な心で感じなければ通り過ぎてしまう、はかない一瞬。「あわい」という言葉は、なぜかそんな無常の響きを持っている。

移ろう季節にかすかな気配を感じ取ることも、自然なバランスで花を生けることも、部屋のしつらえや配置に自分らしい生活の美を作ることも、そんな「関係性の美学」だろう。

人は年齢を重ねると筋肉も感覚器官も衰えるものだが、経験とともに「物を見る眼」だけは鍛えることができる。大人になってもずっと成長できるのは、なんて素敵なことだろう!

【「もの」が語る生活の秘密】

毎日当たり前に生活していても、人は必ずたくさんの「もの」を通り過ぎて行く。朝、さっきまで寝ていたベッドや枕。食事のためのお箸や器。今日一日を共に過ごす服。玄関で靴をはき、バッグを持ち、携帯を操作し、財布を取り出し・・・一日を振り返ってみると、シンプルな日常でさえ、こんなにもたくさんの「もの」が私たちの前に現れては通り過ぎて行く。

多かれ少なかれ、「もの」は必ずあなたに選択されている。悩んで選んだものもあれば、なにも考えないで選んだものもあるだろう。そしてそのトータルが、あなたの生活そのものとなる。好むと好まざるとにかかわらず。

とはいえ、せっかくなら気持ちの良い生活をしたいと思う。雑誌でよく「センスのよい部屋特集」などを見かけるが、それを真似してもしょせんは他人の選択。それよりもちょっとずつ自分で自分の好みを発見していく方が楽しい。

たった一つの「もの」が、生活全体を劇的に変えていく経験をしたことがある。・・・・・・・・中略・・・・・・・・・

たった一つの「もの」の美しさが、まるで波紋のようにゆっくり時間をかけて拡がっていった。それは同時に自分たちだけの生活を作り上げる喜びでもあった。「もの」たちが、私たちに「こうしたらいいよ」と優しく語りかけてくれるようだった。

もちろんそれは、お気に入りの服でも器でも絵でもいい。芯の通った美意識で多くを選び続けることで、日々は豊かに変わっていく。秘密は「もの」が教えてくれる。その静かな声に、もっと深く耳を傾けたい。

【おしゃれの意味】

春。新しい季節が始まり、生活が始まる。地方や都会に引っ越した人もいるだろう。学校や職場、人間関係もまた新しく変わっていく。生きていくことは、変わっていくことだ。そして自分の心が前向きに変わっていくなら、世界はいつも新しい。

「おしゃれ」も自分が素敵に変わっていくこと。ファッションの仕事に関わる私には、とても身近な言葉だ。けれどそもそも「おしゃれ」ってどういう意味だろう。センスが良いこと?流行に敏感なこと?よく考えてみると、なかなかむずかしい言葉だ。

日本語の「しゃれる」という言葉の語源は、「晒れる」つまり何かに「さらされる」ことだという説がある。例えば木綿を灰汁で煮て、日光や雪の上でさらして真白にしたものを晒木綿という。また「しゃれこうべ」といえはドクロのことだが、これは風雨や日光にさらされて白骨になった頭という意味だ。時間の経過で余分なものが自然とそぎおとされて、本質的なものが経ち現われてくる。これが「さらされる」ということである。ではなぜこれが「おしゃれ」と関係あるのだろう。人がされされるとは、どういうことだろう。

例えば、地方から出てきた若者が都会で一人生活を始める。まわりのファッションが気になったり、人に合わせて懸命に背伸びしてみる。初めて人を愛し、生きる喜びを味わったり、深く傷ついたりする。やがて懸命に仕事に取り組んで、キャリアを積み、たくさんの人や物との出会いを重ねて、すこしずつ世間の荒波にもまれていく。

そしていつか、無理に流行を追いかけたり、まわりに振り回されるのではなく、もっと自分らしいスタイルで生きたいと思うようになる。その時、人は「さらされて」きたのだ。だんだん余分なものが要らなくなり、素のままで格好いい。それが「しゃれてる」という日本語の本来の意味なのだ。

なんて素敵な言葉だろう。だとすれば日本語の「おしゃれ」は、英語のファッショナブル(流行の先端をいく)とは全く逆のベクトルをもつ言葉ということになる。つまり経験や年齢を上手に重ねることができれば、人はいくつになっても豊かに変わっていける希望があるということだ。

さらされて美しくなる。ゆっくり時間をかけて、そんな「おしゃれ」な人になりたい。