2016年11月 秋休み子ども茶道体験教室
夏休みに来てくれた子どもたちに、大好評だったとのことで、秋休みにもお稽古にきてくれました。幼稚園生1人、小学2年生1人、小学3年生6人と賑やかなお稽古。
お茶室に入る時には、扇子を前に置いて手をついてお辞儀をします。そして、最初に床の間の前へ行って頭を下げて、掛け軸を読む。そしてまた頭を下げて、移動する。
カトリックの学校に通い、ごミサにあずかり、お御堂では入室にも退室にも頭をさげる習慣のある子どもたちは、床の間の神聖さをすんなりと感覚で理解したようでした。
今日の禅語『明歴々露堂々』を説明しました。
難しくてわからなかったかもしれませんが、子どもたちは、「学校の玄関ホールにある、今月のみ言葉と同じだ」と理解してくれました。「大いなるもの」に守られていることを、暮らしの中で体感できていることはとても大切なことだと思います。どの国の、どの文化の人たちにも、そうして大切にしている場所や動物や植物や思想がある。そう知っていることは、この世界を知る第一歩です。
そうは言っても、お菓子を楽しみにしていて、お気に入りのお菓子が食べられるかどうか、ハラハラしている様子は、無邪気です。
場面場面での立ち振る舞いのお稽古をしましたが、子どもたちは
「先生のお茶が飲みたいです。先生のお茶がとても美味しかったから。」
「先生のお茶、飲みたい、飲みたい」と。
お茶の本質的なことを、子どもたちは本能的に悟ってしまうのでしょうか。
私が点てたお茶を喜んでいただいた後は、子どもたちにもお茶を点ててみて、お母様やご自分で飲んでいただきました。
「夏の時は、私のお茶は先生のみたいに甘くなくて苦くて美味しくなかったけど、今日はあまり苦くない!進歩したみたい。」と嬉しそうでした。
「先生、私のお茶も飲んでみてください。」と口々に。
美味しくお茶を点てたい。
美味しく点てたお茶を誰かに飲んでもらいたい。
そのシンプルな気持ち。
私は子ども茶道教室で、今日の禅語の教え、その通りの体験をしました。
『明歴々露堂々』とは
遠くに求めなくても、真理は目の前に隠すことなく明らかに露呈されている。それを正しく見る目、ありのままに感得する心を養わなければならない。出典 従容録
(朝山一玄著 茶席の禅語句集より)